9月に入りこの度、晴れて志の太郎のウェブサイトが本完成致しました。
(7月から今まではスケジュールのみの更新でしたのでコラムも更新できず)
このウェブサイトを作るにあたり、120%の力を注いでくれた親友がいます。
彼とは高校からの付き合いで15年来になるでしょうか。
当時我々はフォークギター片手に夜な夜な音楽の話をしていました。
この「ブログ」ではなく、「日記」でもない「コラム」を勧めてくれたのも実は彼です。
第一回の内容ですが当初は違うテーマで書いていました。
初回のコラムをウェブサイトに載せる都合上、彼に一度添削をお願いしたところ手厳しい意見が返ってきました。
「作文、ブログ、日記とは違う物を書かないと。落語家としての言葉のセンスも重要だし、表現も大事」
もう少し柔らかい言い方でしたが笑
彼は私が文章を書く以上、読者に「また読みたい」と思わせないと落語家としてとてもマイナスになるし、このコラムコーナーの存在自体が意味なくなる。
と言いたかったのです。
そのときハッと気がつきました。
「喋ること」
「書くこと」
共に構成、起承転結、強弱、表現
全て大事なことです。
しかし同じ事柄を「声に出して喋ること」と「文章にして書くこと」の完成系はまるで違う事に気がつきました。
よく、落語の速記本(落語の台本がそのまま文庫化されたもの)を読むとつまらない。と言われることがあります。
確かに落語の速記本は小説ではありません。
落語は演者が立体化するからこそ面白いのだと思います。
これは師匠から私が修行時代何度も言われた事でもあります。
落語を立体化できるのがプロ
平面でやるのが素人
では、平面の文章の中にも筆者が(この場合は当然私ですが)
立体化する方法があるのではないか?
喋り言葉を文章にするのが正しいのか。
「です」「ます」調で書くのが正しいのか。
起承転結にならい忠実に書くのが正しいのか。
考え出したらたくさんある事に気がつきました。
でも恐らくここまで書いた事は技術的な話なのだと思います。
何かを「喋ること」
何かを「書くこと」
共通しているのは何かを「伝える」こと。
最終的に伝えたい事はなんなのか?これが有耶無耶だとぼんやりとした文章になるのだと思います。
この文章の前半を読めばタイトルは「喋ること 書くこと」のようなタイトルになるかもしれません。
まだまだ書く技術もありませんので余計なことばかり書いているかもしれません笑
しかし私が今回の文章で一番伝えたいのは「親友に感謝」なのです。
でも伝えたい事をタイトルにするのも安直すぎるのではないか、、、、笑
小難しいことばかり1人で考えています。
15年の時を超え、ギターを抱えていた青年二人が
私は扇子に手ぬぐいに着物
彼はズラリとApple製品
互いに手に持つものは変われども、心に持つ信頼関係は何1つ変わらないものなのだなと。「100人の友人より1人の親友」がいざという時に差し伸べてくれる手は本当に暖かいものなのだと実感した今回のコラムでした。